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2010年8月22日日曜日

24的最終日

8月22日、展覧会最終日は来場者も多く、会場のあちこちで様々な出来事が生まれていました。

『関係概念としての知覚的自己研究』会場の奥には、村上泰介氏による(京都市立芸術大学博士課程在籍・メディアアート専攻)視線認識装置のデモブースがしっかりと定着。

二重軸回転装置もこの日は順番待ちの行列ができています。(写真は館内ツアーによる人だかり)

ワークルームに循環してきた館内ツアー参加者たちが見守る中、

一般の来場者も巻き込んでペットボトルロケットの制作が行なわれています。

屋外のアクアカフェでは『光・音・脳』の研究チームとして参加していた前田剛志さん(京都市立芸術大学)が席主となり、茶の席が設けられていました。

アクアカフェの前では『関係概念としての知覚的自己研究』の担当でもある井上明彦氏が、水が入ったゴムチューブを振り回すことで重心軸を狂わせるというでもパフォーマンスを披露。

この展覧会の意図のひとつに、担当者が担当のプロジェクトだけを抱え込むのでなく、別のプロジェクトの情報も共有し、関わり、展開していく可能性
[並列的個人研究・制作に陥ることなく、グループ総体が有機的で多元的な研究プロジェクトとなること。その為のリソースと、場の共有と公開性の保持。(歩行ガイドより)]
や、企画者/観客の一方通行な関係をとりはらうこと
[作品鑑賞を中心とした展覧会ではなく、研究・創造のプロセスに触れることで作者・作品・鑑賞という美術における制度的関係を再配置する可能性の探究。(歩行ガイドより)]
があげられていました。
つまり、今日のような雰囲気のこと?
ドラマの24みたいに、リアルタイムに同時多発的に物語が生成される日。

2010年7月8日木曜日

クリティカル・アート・アンサンブル、パフォーマンス

7月8日、美術館前にて出品作家スティーブ・カーツ氏(クリティカル・アート・アンサンブル)によるパフォーマンス「Concern Citizens of Kyoto」が行なわれました。
このパフォーマンスは、美術館前にてビールと煙草を無料で配布するというもの。
また、ビールと煙草を渡す際、同時に開会式の招待券のコピーも渡されました。


パフォーマンスの前日、3Fワークルームにてレセプション招待券のコピーやチラシを作成。


パフォマンス当日の朝、ビールと煙草の買い出しへ。


昼食時には、[無料ビール FREE BEER , 無料タバコ FREE CIGARETTES]と、配布時間、配布場所を記載したチラシを作成し、アーティストによるパフォーマンスではなく、ビールと煙草が無料ということだけを伝え、三条大橋、河原町、木屋町、市役所前などの人通りの多い街中で配布しました。


市役所前広場でくつろいでいる人、町中に遊びに来ている人、橋の下に住むホームレスの人などにもチラシを渡しました。


夕方、開会式に招待された人が次第に集まる中で、無料配布のチラシを受け取った人や、興味を持った通りすがりの人々が冷えたビールと煙草を求めて集まりはじめました。


内覧会が始まる前には、美術館前で大勢の人がビールや煙草や談笑を楽しんでいました。



このパフォーマンスの目的は美術館と観衆の制度を人々(アーティスト/美術館/観衆)に問い直すことです。
パフォーマンスを行なったCAEのスティーブ・カーツ氏は京都国立近代美術館の建築を最初に見た印象が、病院や監獄のイメージだったと言いました。
そして展覧会で紹介されているものの是非を人々に問う前に、まず招待された人々や関心を持った人々ではなく、もっと一般の人々が来ることが必要だと感じ、その仕掛けとして無料でビールと煙草を配布するこのパフォーマンスを行ないました。

また、集まった人々には「なぜ無料で配られているのか?」を考えることで金銭を媒介にした交換(資本主義)を、普段美術館に来ない人々(美術館に来る人はある程度の知識を持ち、文化的なことに関心を抱いているとして)が来ることで、暗黙のうちに美術館から排除されている人々(美術館にふさわしくないとされている人)がいるのではないかということを、問いかけました。

そしてもうひとつ重要な意図は、集まった人々がその「なぜ?」について話し合いはじめることです。つまり、公共とはいえど暗黙の支配がなされている空間に、オープンな相互関係を築く場を展開することです。

実際、パフォーマンスを行なっている間に集まった人々/美術館スタッフ/アーティストの間でいくつもの対話がなされました。
特にビールや煙草と一緒に配布したコピーのレセプション招待券について、「これで入場することは可能か?」「可能でないならばそれはなぜか?」ということに様々な意見がありました。
このことは、入場料を支払わなければ作品を鑑賞できない=低所得者は美術館が紹介するような芸術には接することができないという美術館の在り方そのものを考えることかもしれません。